長い間、小旅行の記録を付けていません。コロナ渦もあったので行けるところも少なくてつまらない日を送っていました。

そんな中、大阪城へ行くチャンスがあったのです。(20.09.27)
連休も明けて、家内と「今やったら大阪城、絶対に空いてるで」なんて言ってみたらその気になったみたいで、おむすびと卵焼きを作り始めました。


到着したのは、10時半でした。早いとは言えんけど、案の定人っ子ひとり居なかったような気がします。二羽のはとがお迎えでした。11時過ぎに昼飯食って、いざ出陣。

大阪城内も、人がほとんど居ませんでした。前回訪れたのは、長女がまだ幼稚園?だったと思うので、20年以上来ていないことになります。

途中、大阪でもインバウンド騒動があったので、大阪城は散歩程度で、城内に入って、再度感激しました。

お城内では、ほとんが展事物で大阪の歴史やそれに関連する事柄がどばーとあり、ゆっくり見ているとゆう2時間以上はかかります。私も家内も戦国時代には明るい方なので、ああやこうやと言いながら楽しみました。

見て回りながら、それらの展示は昔とそれほど変化はなかったようでしが、若干がデジタル化(大画面での演出)して、誰でもが分かりやすものとなってました。ただ、あれから20年以上の長い間の月日ですから、初めて訪れたのはような気もなりました。

中でも大きな感動を受けたのが、大阪夏の陣の模型でした。圧倒的な攻撃力があった真田群。このとき、家康はその恐ろしさに失禁したと聞きます。

ただ、幸村の攻撃もむなしく家康を討つことが出来なかったようです。でもこの人形旨く出来上がってますね。感動ものでした。

20年以上前といっしょ

2時間は経ったでしょう。そろそろ疲れてきたので外に出て、お茶をすることにしました。その他も廻ろうかと言ってのですが、私の右足がそろそろ悲鳴を上げそうだったので、今日はこのくらいにしました。

帰り道にも素晴らしいものが在りました。それは枡形と言って、一般には四角な空き地であり、または直方体の形。特に.城門の中の四角に作ったあき地です。

山里口出枡形(やまざとぐちでますがた)

本丸と山里丸とを結ぶ通路に設けられた枡形で、徳川幕府が行った大坂城再築工事によって築かれたものです。

ちなみに、外敵に備えるための、石組みに囲まれた四角い区画を枡形といい、特にこの場所は本丸から山里丸側に突き出していることから出枡形と言われます。

南には本丸に通じる姫門、東には山里丸に通じる山里口門があったのですが、いずれも明治維新の大火により、石垣上の塀ともども焼失したと伝えられてます。

尚、西は埋門となっていて隠し曲輪へと通じています。このように大阪城には枡形が多く見られます。

最後に、面白い話をひとつお伝えして終わります。まず、こんな写真を見つけました。

もしこの話が本当だったら、歴史は変わっていたかもしれません。私もこの話は初めて知りました。俄然興味がわいてきました。

それでは、長々とお付き合いありがとうございます。大阪城に興味のあるみなさんも、コロナ渦のあいだに是非大阪城にいって下さい。衛生面はしっかり成されてました。以上

お願い致します!
↓ ↓ ↓
にほんブログ村 ライフスタイルブログへ