■出生名 | ■出生・出生地・死没 |
クリフォード・ブラウン Clifford Brown | 1930年10月30日 アメリカ合衆国 デラウェア州ウィルミントン 1956年6月26日死去(25歳) |
■楽器・活動期間 | ■レーベル |
トランペット | ブルーノート エマーシー・レコード |
私のラッパの師匠でもある最愛の人。それは、クリフォード・ブラウン。
ハード・バップ期初期のプレイヤーであり、生前「ブラウニー」の愛称で親しまれていた。
彼のラッパを聴き、すでに半世紀過ぎましたが、この『with Strings』は、いつ聴いても心を癒やしてくれます。
25歳という若さで逝ってしまった若者は、心優し人と来てます。
そして、いつも人に対しての気配りは欠かせないとも聞き及んでます。
良い意味でも大のお節介でもあったブラウニーは、バンド仲間の送り向かいもしていたそうです。
そんな心優しい彼だからこそ、その優しさはラッパを通して我々に伝わるような気がします。
彼の魅力って、そりゃ「歌心」と屈指のテクニシャンでしょう。
私は、彼のアルバムは、数枚しか持っていませんが、今思えばマイルスも聴いているより、ブラウニーをもっと聴いていれば、良かった!
その後の私のラッパ人生も変わっていたと感じます。
それで、彼のことがもっと知りたくなりました。 そして、いろいろ調べたくなってなりました。
足跡&略歴
父親から13才の時、トランペットを贈られブラウニー少年は、生地のミュージシャン、ロバート・ロウリーに師事して奏法やジャズの和声音楽理論などを学ぶ。
デラウェア州立大学では数学を学び, 49年に音楽奨学金を受けてメリーランド州立大学に転向。
その年ファッツ・ナバロに出会い、ディジー・ガレスピーからその天分を認められた。
50年6月, 自動車事故で入院、51年5月奇蹟的に回復して退院。
クリス・パウエルのR&B バンド(52〜53年)をふり出しに、以後タッド・ダメロン (53年)、ライオネル・ハンプトン楽団 (53年8月〜12月)
その後、アート・ブレイキークインテット (54年2月)をへて、54年3月, ロサンゼルスでマックス・ローチと歴史的な双頭コンボ(ブラウン& ローチ・クインテット)を結成した!
それ以来27ヶ月間、同クインテットはモダン ジャズの黄金期を代表する名コンボとしてファンを魅了した。
数々の傑作をエマーシーに残したが、ブラウンは56年6月26日、シカゴに演奏旅行する途上、ペンシルバニア・ターンパイクで自動車事故死した。
享年25才の若さであった。(なんてこった!)
生前ブラウニーは、ガレスピー、ナバロ、マイルスにつづく巨人と目され、54年度ダウンビート誌批評家投票新人賞を受けた。
ドナルド・バード、リー・モーガン、フレデイ・ハバードなど多くの若手に強大な影響を与えたと!
彼のオリジナルとして「ジョイスプリング」や「ダホード」などの傑作があります。
そして彼の死後、ベニー・ゴルソンが追悼曲として「アイ・リメンバー・クリフォード」も名曲となり、多くのトランペット奏者が心を痛めながら吹いたことでしょう。
ローチは自己のアルバム『パーカッション・ビター・スイート』のなかで 「Tender Warriors」 「Prisefor A Martyr 」の2曲を捧げている。
ブラウンの生地デラウェア州のミュージシャン・ユニオンは、この巨人の違業を記念してクリフォード・ブラウン奨学資金をいまも出している。
ブラウンの残したレコードはいずれも傾聴に価する優れたものばかりだが、とくにブルーノートの「メモリアル・アルバムやエマーシーの諸作は代表的名盤となります。
尚、 死のわずか数時間前に行われたジャム・セッションを収録した「ザ・ビギンング & ジ・エンド」 が、CBSでLP化された。
以上、調査結果です。 彼のことを知りたかったので、長文となりました。
乱文ご容赦願います!そして、長々とお付き合い感謝します。
爺さん頑張ってます!↓ ↓ ↓